スパイラル〜推理の絆〜
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ワンダフル・ハート〜問題編〜 城平 京
「生命維持装置が外されることになった脳死患者」
 あたしが警視庁捜査一課に顔を出すと、羽丘まどか刑事が鳴海清隆にそんなことを言い出していた。
「その患者をわざわざ刺殺する必要があるでしょうか?」
 部下の問いかけに鳴海は朝刊に落としていた視線を上げ、
「患者が脳死と判定されていたなら、その時点で患者は『死』が認定されている。よってその人物はすでに死体だ。『刺殺する』のは不可能だよ。刺そうが焼こうが死体損壊にしかならない。そんな意味の成さない質問は却下する」
「くされ哲学者みたいなこと言ってごまかそうとしてもダメですよ」
「ごまかすとはなんだ。私の指摘は正しいぞ」
 いやぁな沈黙があった。ぴらりと新聞をめくる音。おいおい鳴海、いい加減自分の部下の性格、知った方がいいよ。
「真面目にしないとしまいには殴りますよ」
「おう、私はいつでも真面目だ。そんなややこしい事件に着手して帰宅時間が遅くなるのはごめんこうむると言いたいわけでだな───」
 まどか刑事必殺のかかと落としが鳴海の頭頂部に直撃した。殴ると言っといて先に足が出るんだから、この人もこわいよ。
「こら、どうしてすぐそう暴力に訴えるんだ! 帰宅時間が遅くなると大変なんだぞ!」
「何がどう大変なんです?」
「ほら、楽しいパソコンゲームをやる時間が減るとか」
 今度は二枚蹴りが鳴海の体に打ち込まれて床に転がされる。いっそ骨まで砕けばいいのに、まどか刑事は高度な技を使ってもそこんとこ手加減してる。だから鳴海の野郎がつけあがるんだよ。毎朝のことなんで、回りにいる同僚さんも全然気にしていない。
 あたしはため息をつき、女刑事さんに声をかけた。
「おはよ、毎朝しつけに手こずるね」
「ああ、小日向さん、来てたの。あなたの婚約者は今日もネジがゆるんでるわよ」
「それ言わないで。あたしはまかり間違ってもあんな奴と結婚したりしないんだからっ」
 あたし、小日向くるみ。恋愛の自由と小日向グループ総指揮権を取り戻すため、現在警視庁で美少女名探偵をやってる十六歳だ。

 なんだか無茶苦茶な設定だけど、そんなことになったのには当然じじょーってものがある。知らない人のために一応説明するけど、知ってるなら特別読み飛ばしてよし。
 ことの起こりはあたしのおじい様、小日向グループ総裁小日向紋十郎がグループの全指揮権を鳴海清隆って奴に譲り、ついでにそいつとあたしが結婚するよう言い出したことだ。
 小日向グループについて詳しい説明はいらないわね。政界、財界、アンダーグラウンドでディープでカルトな業界にも巨大な影響力を持ち、鉄道、航空、船舶、不動産、あらゆるインフラに携わるハイパーコングロマリットだ。その力は日本のみならず、グローバルに有効だ。。
 あたしはグループ総裁の孫娘として後々グループ運営を任され、総裁職を譲られるはずだった。それは文句なしの決定事項だったのだ。あたしはアメリカの大学を十四で卒業、身長はモデルになるにはちょっと足りないけど、ちゃあんと出るとこ出てるしウエストの締まり具合は自慢もの。スポーツは万能で枝毛のないきれいな髪はポニーテール。くわえて美少女。こんなあたしが強力無比の権力を譲られ、よりどりみどりで結婚相手を選ぶのは真理ってものでしょ。
 それなのにおじい様はどう脳が歪んだのか、鳴海清隆なんていう刑事ふぜいに全部をやろうというのだ。鳴海清隆は百年に一人ほどの優秀な男で、是非ともその能力とDNAが小日向に欲しいんだと。あたしはきっぱり反対したね。優秀な能力も血もあたしの中に湧きたってる。いらんとこから持ってくることないのだ。
 かといってそれを聞くおじい様じゃない。これであたしの明るい未来は終わりかと思われた。けど、おじい様はひとつだけチャンスをくれた。もしあたしが鳴海より優れた能力を持っていることが証明できれば、全ての命令を撤回するというのだ。具体的に言うと、鳴海が担当した事件を先に解決してしまえばいいってこと。
 それであたしは毎朝警視庁に出かけて鳴海の担当する事件に張り付いて美少女名探偵たろうとしてるのだ。グループの力で捜査に特別加われるようにしてもらってるし、他の刑事さん達も男臭い職場の華ってことでけっこう歓迎してくれている。複雑な表情は鳴海の部下のまどか刑事くらいね。この人は二十代前半の女刑事なんだけど、そこそこ美形で刑事として使えることは使える。でも暴力的で性格に問題があるという、真面目そうで実は危険な人なのだ。
 で、現在。恐ろしいことにあたしはまだ鳴海より先に事件を解決できたことがない。ううっ、プライドがぁっ。あんなおふざけ野郎に勝てないなんて!


「おい、羽丘、蹴ることは百歩譲って認めてやるが、せめて靴はやわらかいものにしろ。あと殴るんだったら指に貴金属をつけるのも反則だぞ」
 あちこちボロボロになった鳴海は起きあがると部下にそんなことを要求した。
「ね、言ってて情けなくなんない?」
 部下に蹴られるってとこであんたは間違ってるんだよ。
 鳴海はようやくあたしの存在に気づいたような顔をし、
「これはお嬢さん、朝から仏頂面だな」
「あんたが今ここで死んでくれたらとっても幸福な顔をしてあげるわ」
「それは私が幸福じゃないからイヤだな。他の方法を考えてくれ」
 そしてソファにどかっと座り、ふぃーと息をついた。次に長い足を組んで朝刊を広げなおす。
 鳴海はけっしてぶさいくな男じゃない。容姿は一種独特の雰囲気で整然とし、どんな群衆の中でもぱっと栄える気配があった。そのまま映画の主人公として通じるくらい存在感があるのだ。二十八歳にして警部。頭も要領も悪い方じゃないだろう。厳しく測ってもトップクラスの「いい男」に分類されるはずだ。
 だけどあたしはこいつが生理的にキライ。何事にも真剣味がないのだ。あくびしてればそのうち幸運が転がり込み、何もかもがうまくいってろくに難なく天寿を全うできる、と考えてやがるみたいな節がある。実際これまでその通り生きてこられたらしく、ますます不愉快ってもんだ。
 こんなのと結婚した日にはどんな災難がしわ寄せでやってくるかわかったもんじゃない。
「それで羽丘、その脳死がどうたらって事件は所轄から回ってきたのか?」
 鳴海は新聞の四コママンガに注意を向けながら話を促す。
「はい、警部をご指名で回ってきました」
「やだな、それ。きなくさくてひねた事件はなんでも私に回してくる」
「素直で単純な事件は地道な捜査が面倒くさいってほざいてるからそんなことになるんです。だいたいそれにつき合わされる私の身にもなってください」
 あたしはそばにあった椅子を持ってき、背もたれを前に座った。
「その患者さんの生命維持装置、いつ外されることになってたの?」
 脳死ってのはいろいろ複雑で曖昧な定義があるみたいだけど、粗っぽく片づけると最新鋭の医療機器がないと心臓が動かない状態のことだ。銃弾や鈍器で脳が物理的に破壊されてそうなることもあれば、首を絞められて脳への血流が一時的に止まり、結果的に脳が死んじゃうってケースもある。
 脳細胞は再生しない。脳が死ねばその人が目覚めることはまず考えられない。けど機械で心臓を動かして、肉体を生かすことはできるのだ。
 ではこの人は生きてるのか死んでるのか。我思う故に我ありのデカルト流なら死んじゃってるんだけど、脳死者って体温あるのよね。普通の感覚だと「死」と捉えるのに抵抗ある。現代医療の困ったところだ。
 まどか刑事が肩をすくめた。
「刺殺事件のあった三日後には外される予定だったわ。だからその患者、生稲潤子さんは放っておいても合法的に全身死するはずだったの。無論生稲さんの家族も皆そのことに同意し、病院側も問題なかった」
「なのに犯人は生稲さんを刺殺したっていうの?」
「そう、鋭利なナイフを胸に突き刺した」
 こりゃ妙な事件だわ。蘇ることのない脳死者をさらに殺すってこと自体おかしいのに、その人は犯人が手を下さなくとも、じきにとどめをさされる運命にあったのだ(不穏な表現かしら)。それはまるで無意味な犯罪。
「簡単にまとめて言ってくれ。以前どんなことがあって、何が今問題になってるんだ?」
鳴海は面倒くさそうにまどか刑事に問いながらソファに寝転がる。女刑事さんは一瞬殺し屋みたいな目になって奴を睨んだけど、ここは自制心を発揮して口を開いた。
「二週間前のことです。生稲潤子という二十三歳の女性が銃弾を頭に撃ち込み、自殺をはかりました。しかし彼女の兄が早期に発見して病院に運んだため、潤子さんは脳死という形ながら生きながらえることになったんです。その後家族は潤子さんの生前の意志もあって彼女の臓器を移植に提供することを同意、生命維持装置を外すことになりました」
「ところが何者かによってナイフが潤子さんの胸に突き立てられ、彼女は全身死?」
 あたしが挟むとまどか刑事がうなずく。
「さらにその事件によって潤子さんが生前、殺害される動機を持っていたことが判明したんです。自殺として片づけられていた過去の出来事は殺人の線が濃くなり、一課にまで再調査の要請が来ることになりました。事件の発生は一週間前。警部に期待されているのは早期にその犯人を逮捕し、真相を明らかにすることです」
 鳴海はだらしない格好で指を一本立てた。
「気に入らない。さっきも言ったがその生稲潤子の傷害は殺人の境界になりかねない」
「それは罪状に関わって裁判で争われることです。また彼女の自殺が偽装であるなら、余計な心配というものです」
「他にもあるぞ。この程度の事件がどうして一課に来る? さらにここ一ヶ月の新聞でそんな面白そうな事件が載ってるのを見た覚えがない」
「臓器移植のドナーとなる脳死の女性にナイフが突き立てられたんです。病院は管理責任の追及やスキャンダルをおそれて上層部に働きかけ、マスコミを押さえました。ただでさえ話題になる臓器移植ですから、病院側も必死です」
 ああ、よくある話だ。いずれ事件が明るみに出るのは避けられないとして、それまでに犯人を突き止め、こじれそうな所を最初からもみ消しておきたいのだろう。そのために一課の優秀な刑事を動員し、真相の究明を急がせようと───。
 むっ、てことは何? 鳴海ってばそんな責任重大なことをひょいと任せられる男って評価されてるの?
 とてもそうは見えない三十前の刑事はソファの上でごろごろごねだした。
「ううー、そういうのに巻き込まれるとろくな事にならないんだ。羽丘、どうして私の意見も聞かずにそんな仕事を引き受けるんだ」
「警部、私立探偵ならそういう泣き言通じますが、刑事が仕事の選り好みできると思ってるんですか?」
 まどか刑事は生稲さんに関する捜査ファイルを手にした。
「いつものように詳しい事件経過と捜査状況をお話ししますけど、よろしいですか?」
 鳴海は登校拒否児童みたいに冴えない表情で起きあがると、まどか刑事の手からファイルをぺしっと取り上げる。
「ちょうどいい、羽丘。くるみお嬢さんと二人で実地に当たってこい。これまでの成果をただ聞かされるより身になるだろ」
 おい、あたしの行動を勝手に決めるな。
「警部はどうなさるんです?」
「ここでファイル見て考える。ああ、楽ちんなり」
 まどか刑事の蹴りが鳴海の顔面にめり込んだ。うわあ、いい気味だけどこりゃ痛い。
「上からくれぐれも慎重かつ迅速に捜査に当たるように、という命令が出てるんです。それをこんな小娘と組んで捜査しろって言うんですか?」
「小娘呼ばわりしないで。あたしより胸が小さいくせに」
「それは違うぞ、お嬢さん。羽丘は着やせするんだ。実はけっこうある」
 まどか刑事の右ストレートが鳴海のテンプルを弾き飛ばした。合掌。
「警部、しまいには殺しますよ」
 こらこら、刑事がそんな文句つかっちゃいかんよ。
 鳴海は部下を制止するように手を上げ、
「か、考えなしに命令したんじゃないぞ。くるみお嬢さんには私より先に事件を解決してもらわないと困るんだ。私がここで積極的に捜査に乗り出さないのはそのハンデだよ」
 むかっ。ハンデとは偉そうじゃないの。そりゃあんたに勝ててないの確かだけど。
「さらにいいことに、くるみお嬢さんが事件に関われば何かあっても小日向グループの権力が最後の防波堤になる」
 それも確かだ。あたしは十六でもグループ内でけっこう発言力あるし、おじい様も小指の先くらいは援助してくれる(その小指で億単位のお金が動くのよん)。あたしに甘いお父様クラスでも、大病院や警察庁の圧力くらい簡単に振り切れる力がある。
「というわけでがんばれ、お二人さん」
 鳴海は小憎たらしい表情でガッツポーズを作った。


「鳴海の野郎にだまされたみたいで気分悪いわ」
「『みたい』じゃなくてそうなのよ」
 ハンドルを握るまどか刑事は唇の端を微妙にひきつらせていた。この人もいろいろストレスたまってるな。結局あたし達は鳴海の指示通りに外に出て、今は車で最初の目的地に向かっているところだった。
「最近出てきた潤子さんが殺される動機ってなんなの?」
 あたしはきりっと背筋を伸ばして車を走らせるまどか刑事に尋ねた。いつまでもうだうだ言ってる場合じゃない。
「潤子さんは殺人を目撃していたの。そのことを自殺の前にお兄さんにしゃべっていたのよ。その殺人がどんなもので、現在死体が発見されてる事件かどうかも不明だけど、潤子さんははっきりその犯人に顔を見られたと電話で言ったそうよ」
「なんでそんな重大なことが今頃出てくるのよ。自殺直後に兄貴のやつが警察に言ってれば、その段階できっちり捜査してたでしょ?」
「潤子さんはその犯人をかばうと言ってたのよ。『今は黙っててあげるの。この先どうなるかはわからないけど、裁くのは本人と神様の意志に任せたいし』って。だから兄は妹の意志を尊重し、妹に以前から自殺願望があったのを知ってたから、引っかかってもそれを黙っていた。ところが脳死の妹をさらに殺すような非道が行われて黙っていられなくなった。自殺と思いこもうとしていたことが、その犯人の仕業に考えられ出してきたのよ。犯人は念には念を入れて妹の口を封じようとしたのではないか、ってね」
 あたしはそれを聞いて鼻の頭を押さえた。
「ふうん、でもおかしいわ。犯人が自殺に見せかけて潤子さんを殺そうとしたするでしょ、なら脳死の段階で殺人は成功したも同じじゃない。ついでに三日も経てば全身死させられて、臓器移植で体はバラバラにされるのよ。念には念を入れてって言ってもさ、潤子さんの入院場所を調べる段階で脳死のことはわかりそうなものだし、潤子さんの口振りからするとその犯人は移植のことも知ることができた親しい人じゃない?」
「犯人はその三日が怖かったのかもしれないわね。その三日で奇跡的な復活が起こるんじゃないかって考えたのかも。古来復活の伝承はたくさんあるわよ、例の教祖様とか」
 あ。あたしをからかってるな。
「仮にそれを認めても断然おかしい。ナイフなんかで刺し殺したら殺人がバレバレじゃない。せっかく自殺で片づいてた事件が再調査されてやぶへびよ。目端の利く犯人なら生命維持装置の故障を装うくらいするでしょ」
 まどか刑事は女教師みたいに微笑した。
「その通り。あなたも少しは目端が利くわね」
「あたしは未来の小日向グループ総裁よ。あなたなんかよりずっと頭いいの」
 その未来の総裁がわけのわからん殺人捜査をやらなきゃなんないんだから、やってらんないわ。
「生稲潤子さんの自殺理由、当初はどう考えられてたの? その時は事件にならなかったんだから、まわりが納得するものあったんでしょ?」
「潤子さんは画家を目指していたの。けれど自分の才能の限界に悲観して、長い間あやうい状態でいたのよ。その状態を知るまわりの人間は自殺を不思議に思わなかったし、直前にもお兄さんと電話で、これから死ぬようなことをしゃべっていたの。だから兄の朗さんは電話が切られるとすぐ妹のアパートに走った。結果、拳銃を握って頭から血を流している妹を発見したのよ」
「銃の入手経路はわかってる?」
「いまだ不明。珍しくないタイプの銃だし、拳銃なんて近頃恐ろしく簡単に手に入るから特定できないでしょう」
「遺書はあった?」
「部屋の机の上にあったわ。ただし本文はワープロで打たれていて、最後に自筆の添え書きがあっただけ。添え書きの筆跡は潤子さんのものと判断されたわ。また遺書の横には全ての臓器の提供を受諾するドナーカード置かれていた」
「コンビニや郵便局にも置かれてて、羽の生えた女の子の絵が入ったカード?」
「そう。気軽なものだけど、移植を待つ人にとっては重い一枚ね。遺書のコピーは鞄に入ってる。見ておくといいわ」
 あたしは勝手に鞄を開けてB5用紙を二つ折りにした遺書のコピーを取りだし、広げてみた。そこには次のような文面がワープロの明朝体でつづられていた。

   家族のみんなへ
   何だかもうダメです。頑張ったけど
   めざすものには届かず、非才がこう
   自分を苦しめるばかりでは。いつか
   死を考えるようになり、なにかのお
   許しが出るのを待つように時を重ね、
   しかるべく機会を得ました。これが
   天恵です。私の体を役立てて下さい。

 短い文面で、神経の病がかすかに匂う内容と言えるかもしれない。一方で被害者をよく知る人間が急いででっち上げた文面にも見える。
 その本文の左横にやや乱れた筆使いで、『他の臓器はどう扱っても構いませんが、心臓だけは卯堂若菜さんにあげて下さい。適性は良いそうです。それ以外の人に私の心臓をあげないでください』、とあった。
「卯堂若菜さんって誰?」
「潤子さんの友人と言うべきかしらね、いま十七歳。心臓に重い障害を持ってて入院してるわ。心臓移植をしないともう長く生きられない体なの。歳は離れていても潤子さんと仲がよかったそうよ。遺書に『しかるべく機会を得ました。これが天恵です』ってところがあるわね? 彼女は頭に銃弾を撃ち込む一週間前、病院で検査を受けて自分の心臓が若菜さんに合うかどうか調べてるの。血液型や拒絶反応の有無、サイズとかね」
「その結果が良かったんだ。潤子さんは生きるのが嫌になってたし、自分の体で若菜さんを救えるんなら死ぬのもバカらしくない、だらだら生きるよりはずっと気持ちがいいって考えたってことか。それが機会で天の恵みって方程式?」
「皆はそう取ったみたいよ」
「ふうん、ま、そう考えた方が潤子さんの家族も若菜さんも慰められるか。心臓は若菜さんにあげられることになったの?」
 普通臓器を移植される側、いわゆるレシピエントは臓器の適合率からコーディネイトされ、ドナー(提供者)側にもレシピエント側にも双方の名前・素性を教えないことになってる。知っていることでトラブルが起こることもあるからね。
「故人の遺志もあるし、適性も十分だったから、若菜さんへの移植が決定したわ」
「よかったじゃない。手術は成功したの?」
 まどか刑事は黙っていた。あたしは自分の勘の悪さにほっぺたを叩いた。どうして今車に乗ってるんだ? 少し考えればわかりそうなものじゃない。
 まどか刑事がウインカーを出してハンドルを右に切る。
「脳死した潤子さんは胸を刺されたの。だからナイフが突き立っていたのはその心臓。いくつも穴のあいた心臓を若菜さんに移植できないわ」
 車は事件のあった病院に入っていった。うー、これは鳴海の言ってたとおり、きなくさいことになりそうだ。


 事件のあった病院は臓器移植に関して国内では第一線にあるところで、成功例も不安でない程度に持っている。警備や管理がずさんなとこじゃないけど、潤子さんの事件は間隙をつかれたっていうか、まさか脳死者を殺しに来るやつはいねぇだろ、という余裕をひねられた感じだった。
 潤子さんの胸にナイフ(コンビニでも売ってる果物ナイフだった)が突き立てられたのは午後一時前くらい。定期的に見回りに来ていた看護婦が発見した時はまだ彼女の体は温かく、刺されてからそんなに時間が経過してなかったそうだ。
 発見が早かったので刺傷を受けた心臓以外の臓器や肉体のパーツは移植にまわせたが、事件が事件のため、司法解剖との折り合いで難儀したそうだ。
 わざわざ小日向のお嬢様が病院に来てやったのに、病院関係者は「話せることはもう話したから」とあたし達から逃げ回る。警察が病院に来てるってこと自体知られたくないみたいだ。どこにマスコミの耳があるかわかんないし、下手なこと漏らして後々責任かぶせられるのもごめんってことだろう。
「これじゃ捜査にならないじゃない。あたしの名前出せば院長だって土下座するわよ」
「趣味のいいことじゃないわね。今のところ必要な聞き取りは所轄が済ませてくれてるから、無理することもないでしょ」
 この潤子さんの刺殺事件(鳴海に言わせると死体損壊事件か)について使えそうな情報はてんでなかった。目撃者はいないし関係者のアリバイはないし、ナイフの出所も不明。まどか刑事に言わせると、
「入念な計画を練ってじゃなく、自然の流れに任せてすっとやったって犯行ね。こういう事件ほど犯人がわからないものなの。犯行に無理がないから。ここから真相にアプローチするのは難しいでしょうね」
 ということだ。それは同感。計画犯罪って凝っちゃって無理して不自然になるから、逆に犯人がわかっちゃうんだよね。前のゾルゲクラゲ事件がいい例かもしれない。
 病院関係者の方はあきらめて、あたし達はここに長期入院している卯堂若菜さんに話を聞きに行くことにした。九歳の時、心筋と冠状動脈がどうにかなって、以後入院生活を強いられているということだ。
 長く白い廊下を歩いて目的の病室が視界に入ると、そのドアが開いて一人の男性が出てきた。二十代後半で、さっぱりしたスーツ姿に大きな鞄を持った強い瞳の男性だった。
「若菜さんのお兄さんで卯堂要さん。潤子さんと若菜さんは彼を通して知り合ったの」
 まどか刑事はこそっとあたしに言うと、さっそく要さんに挨拶に行く。あたしもついていってそれに並んだ。要さんは最初あたし達を不審に見たが、身分を説明するとすぐに警戒を解いてくれた。
「潤子さんの事件に関していくつかお尋ねしたいのですが、よろしいでしょうか?」
 まどか刑事はあたしに口を開かないよう注意するとそう切り出した。
「ええ、僕に答えられることならいくらでも」
 要さんはうなずくと息を吐き、呟くように続けた。
「潤子さんのことは何もかもがひどかった。彼女が死ぬことはなかったし、せっかく若菜のために遺してくれた言葉も踏みにじられたんです。彼女の自殺も本当は殺人なら、犯人は死者を鞭打つようなことまでしなくちゃならなかったんでしょうか」
「まだ多くが不明です。はっきりしたことは言えません。それでですが、卯堂さんは潤子さんとどうしてお知り合いになられたんです?」
「ええと、ご存じかもしれませんが、僕は主に雑貨の輸入販売や仲介をやってるんです。他にも人脈を生かして大きな企業の情報収集役とか、株式の取引にも手を出してるんで本当に主なのはどれかわからないですけどね。それで二年くらい前までは事務所を構えてて、その手伝いに美大生だった潤子さんを雇ったんです」
 今は携帯電話とノートパソコンがあればどこでも仕事が出来るので、事務所は畳んだそうだ。妹さんを頻繁に訪ねるにもそれがいいんだと。
「とっつきにくいところのある人で、最初は単なるバイトと雇い主ってだけの関係だったんですが、若菜が絵を描いていて、時間があったら若菜に絵画の基本を教えたりしてくれないかな、と思って声をかけてみたんです。そしたら引き受けてくれて、若菜ともずいぶん波長が合ったみたいでね。バイトを辞めた後もよく病院に来てくれてたんです」
「卯堂さんから見て、妹さんと彼女の仲は良かったんですか?」
「ええ、それは間違いなく。若菜は潤子さんが好きなんです。僕はこのとおり男ですから、どうしても女の子の気持ちがわかんなくて、若菜にとって潤子さんはそこのところをわかってくれるお姉さんだったと思います。ただ潤子さんって笑ってる時でも影があって、若菜も前から心配してたんです。『潤子さんって、いつもぴったりの死に場所を探してる』って。自殺したって聞いてもやっぱり、て気が先に立ちました」
「そういうネガティブな女性が妹さんのそばにいるのは快く思われなかったのでは?」
「若菜がべったりでしたから、僕がどう言っても仕方ありませんよ。それに潤子さんってネガティブとは少し違ったんです。そりゃ彼女は破滅指向でしたけど、前向きの破滅というか、自分が価値あるためにそうしてるんだって感じられましたしね。だいたい彼女、基本的には明るかったですよ」
 才能に悲観したゲージュツ家ってイメージとちょびっとずれる。遺書を読んだ時はかなりうっとうしそうな人を想像したんだけどな。
「卯堂さんのご家族は妹さんだけですか?」
「ええ、親戚はいませんし、両親は六年前にそろって自動車事故でね。母は病院に収容されてしばらく息があったんですが、三日目に息を引き取りました。最後まで若菜のことを気にかけてましたよ。その時に僕は母と約束したんです。若菜は僕が守るって」
 そう言う要さんは誇らしげで、疲れた様子が全然なかった。このお兄ちゃんは現在二十八歳だから、それは二十二歳の時。それからひとりで心臓病の妹を支えてきたのか。えらいねぇー。
「妹さんの入院費や治療代はたいへんでしょう?」
「それはね。心臓移植もタダじゃありませんし。でもビジネスの才能があったおかげでなんとか稼ぎ出してますよ」
「時には妹さんのことが重荷になったりはしませんか? 若菜さんがいなければもっと楽でいい生活できたのに、と」
 こりゃまどか刑事、お兄ちゃんを怒らせるつもりかな、と見ていると、要さんは怒るどころか驚いたような顔をした。それからほっぺたをかき、
「なるほど、そういう考え方がありますね。ああ、そうか、普通はそんな風に思うんでしょうね。僕はそれ、一度もないんです。嘘じゃありませんよ。こんなこと言うと笑われるかもしれませんけど、誰かを守るのに一生懸命になるって悪くないですよ」
 要さんは照れくさそうに苦笑し、腕時計を見た。
「すいません、取引先との連絡があるので失礼してよろしいですか? 病院じゃケイタイ使えないんで」
 まどか刑事はうなずく。
「こちらこそお引き留めして申し訳ありませんでした。一日も早く若菜さんの心臓移植が叶えばよろしいですね」
「ええ、何があっても最後まで希望は捨てません。僕が若菜を救います」
 要さんはそれからきっちり頭を下げ、廊下の端を歩いて遠ざかっていった。あたしはその背中を見送りながらまどか刑事に尋ねた。
「このままだと若菜さん、どれくらい生きられるの?」
「たった二年。その先は神様次第だそうよ」
 潤子さんの心臓が失われたのが痛い。みんなにとってとても痛い。


「お兄ちゃんは一日二回お祈りしてるって潤子さんが言ってました。朝起きると『若菜が今日を無事過ごせますように』って一回。夜眠る前に『若菜が明日を無事過ごせますように』って二回。いつだったかな、おかしそうに教えてくれたんです」
 若菜さんは十七歳というには幼かった。あたしよりひとつ上だけど、実際二つは下の面差しだ。病が成長を妨げてるんだろうか。全身に張りがなく、肉付きも弱々しい。何本ものチューブを体につなぎ、ベッドに横たわってあたし達にそんなことを言ってくれた。
「お兄ちゃんの愛って時々重いけど、本当につらい時、生きる力をくれるのがお兄ちゃんなんです」
 白い個室で、壁に一枚だけ黄色とピンクを散らした抽象画がかかっていた。潤子さんの描いた絵だそうだ。面白くも珍しくもないことを描いた本人が一番わかっている絵みたい。「潤子さんが自殺したと聞いた時、どう思われました?」
 まどか刑事がの声ってほんと職務的に響く。不快じゃないけど個性がないよ。
「ああ、私がきっかけを与えちゃったんだ、って思いました。潤子さんはずっと、あげられるなら心臓をあげたいって言ってたんです。私は本気にしてなかったんですけど、検査を受けたって聞いて、正直怖くなりました。合わなければいいって思ったんです。もし合ったなら、潤子さんに自殺の理由を与えちゃうから」
「ではそんな経緯で譲られる心臓なら、結果的に移植されなくて良かった?」
 その性根の悪い質問に若菜さんは小さく首を横に振った。
「もう潤子さんが生き返らないなら、その心臓は欲しかったです。私は潤子さんが好きでした。その人の一部が自分の中で生きてくれるのって、すごく嬉しくありません?」
「なら潤子さんが刺殺されたと知った時はつらかったですか?」
「ただわけがわからなくなりました。手術が中止されたってことより、どうして潤子さんにそんなひどいことするんだって気持ちがあふれてきて。それに最初の自殺も本当は殺人かもしれないんですよね、もしそうだったらあんまりです」
 まどか刑事はしばらく腕を組んで質問を考えているみたいだったが、ようやくその薄紅色の唇を開く。
「若菜さんから見て、潤子さんはどういう人だったんでしょうか?」
 それはあたしも知りたい。この人、事件の中心なのに性格のつかめないこと甚だしい。
「強い人でした。どんなものもおそれず見つめられる人でした」
 はて、そういう人は一番自殺に縁遠いんじゃないかな。なのにみんな納得した?
 若菜さんはあたしの疑問に答えるように続ける。
「潤子さんは絵を描きたかったんです。絵が潤子さんが生きる全てだったんです。でもある時、自分には絵を描く才能がないことに気づいて、それを認めてしまったんです。弱い人ならそれを見なかったことにしたり、誰かに助けを求めたりするんですけど、潤子さんは強いから、その恐ろしい自画像を受け入れちゃったんです」
 うーん、むつかしいこと言ってるな。
「潤子さんはそれを受け入れた瞬間、『こりゃまいったわ』って思ったそうです。『こんな女が生きてても酸素の無駄遣いだから、いい死に場所を探すしかないか』って考えちゃったんです。『やっぱ死に華咲かせてなんぼでしょ、誰かを助けて死ねたらかっこいいかな』って。普通の人なら死ぬのはこわいのに、あの人は強いからできちゃったんです。少しでも臆病だったら、死ねるはずないんです」
 そういう捉え方もあるのかな。
「誰かのために死ぬって褒められたことじゃないかもしれないけど、私はその強さが好きでした。私も強くなりたいです」
 若菜さんは涙を流さなかったけど、心のどっかが泣いてるみたいだった。
「だから潤子さんの心臓が欲しかったです。潤子さんのハートがあれば私も強くなれたのに。そしてもう一度、潤子さんと絵を描けたのに」


あたし達は車に戻って病院を脱出していた。外に流れる景色が寒いや。
「ヘビィでしりあすな話を聞かされたわ。せっかく美少女名探偵が乗り出してるんだから、こうポップでキュートな展開になんないかな」
「手持ちの情報じゃなりそうもないわね」
 うおう、このテンションがまだ続くのか。そりゃ殺人事件だから、さぁ、みなさんご陽気にまいりましょう、ってのもよくないけどさ。
次に車が向かったのは、潤子さんのお姉さん、有美さんのマンションだった。潤子さんの親類と呼べる人は、このお姉さんとお兄さんの二人だけだ。彼女も卯堂兄妹同様、両親を以前に失ってる。特に母親は潤子さんを生むと同時に亡くなったそうだ。
「ぶっちゃけた話、潤子は苦手だったわ」
 有美さんは見たまんま水商売な女性だった。聞いたらやっぱりそういう接客業の人だった。出勤前だからけばけばな化粧はしてなかったけど、夜に似合う色気ってものがあってあたしなんかむせかえりそうだ。年齢は二十七歳。
「何考えてるかわかんない時あったし、描いてる絵のこともわかんなかったしさ、そんなに離れて住んでたわけじゃないんだけど、ここ二、三年は電話でしか話したことがないくらい。最後の対面が頭に穴あいてる有様なんだから」
「なのに自殺の報せに驚かれなかったんですか?」
 リビングのソファに座ったまどか刑事が尋ねる。あたしはずっと聞き役に徹してるな。
「あの子は昔から見切りをつけるのがはやいっていうか、こうと決めたらどんなことでも迷わずやっちゃえる性格だったのよ。自殺だって、それをやるのに大きな意味があるって納得したらやるだろうなぁ、って」
 有美さんはけだるそうな目を灰皿に向けると頭をかいて続けた。
「聞いてない? あの子、産まれてきたことに負い目を感じてたのよ」
「それはお母さんの死に関わって?」
「そ。母は潤子を産むと同時に死んじゃってさ、親父はあれ、医療ミスだって言ってたっけ。でも潤子は自分のせいで母を死なせたって早くから思ってたらしいわ。絵を描き始めたのも母のことがあったからなのよ」
 潤子さんのお母さんは死ぬ前、画壇でけっこう評価の高くなっていた絵描きさんで、なんぞ権威ある賞を獲るのが夢だったそうだ。ところが志半ばに死んじゃった。母親の死と引き替えに産まれてきた潤子さんは、その負い目をぬぐうためにその賞を獲ろうとした。
「潤子にとってそれが自分の産まれてきた意味だったんだろうね。母の果たせなかった夢を叶えるのが、母の死を無意味にしないことだって。だから才能がないって認めちゃった時ってすごいものがあったと思うよ。自分のやってきたことだけじゃなく、母の死も意味をなくすんだから。あたしにはそのことけろりと話してたけど」
「才能に絶望したと聞いた時、潤子さんがすぐ自殺するとは考えなかったんですか?」
「それは考えないよ。だって絶望だけでひょいと自殺したら、母の死が本当に意味をなくしちゃうでしょ。潤子がそれを許すわけないから。そこんとこわかってたからあたしも朗もあせんなかったの。潤子に死ぬ気があっても、母の人生も自分の人生も無意味にする自殺だけはないだろうって。まさか臓器移植なんてはなれ技、想像してなかったから」
「ほえ? 臓器移植がどうしてお母さんの死も無意味にしないの?」
 あたしは思わず発言していた。有美さんはしげしげとあたしを眺め、
「心臓を移植されるはずだった子、絵の才能があったんでしょ? 潤子にとってはそれで十分だったんじゃないかしらね。自分の心臓でその子が生きて、夢を叶えてくれるなら、母が潤子を産んだことも、潤子が自殺するのも、それなりに意味を持つでしょ?」
 心臓はドキドキハートの象徴だ。腎臓や肝臓と違って、どこかその人の『おもい』が詰まってる気がする。移植によって、『おもい』はダイレクトに伝えられる。へびぃね。
「刑事さん、あたしは潤子が苦手だったし、あの子もあたしを特別好いててくれたと思わない。けどあの子はバカな愚痴を何時間も聞いてくれたし、男にふられたら慰めてくれた。自殺ならあきらめもつくのよ。それが殺されてたなんてたまんないじゃない。その上無抵抗の体にナイフ刺されて、最後の願いもつぶされてさ。絶対犯人捕まえてよ」


「あたし、考えたんだけど」
 またまたまどか刑事の運転する車の中。あたしは頬杖をつきながら言う。
「潤子さんの刺殺、若菜さんへの心臓移植をさせないためにやったんじゃないかな」
 まどか刑事だって考えてたんだろう、すんなりうなずいてアクセルを踏み込む。
「それが自然な発想でしょうね。でもどう調べても、移植を望まない人間は事件の中から現れないのよ」
 これまでの捜査結果は全部教えてもらったから、言われんでもわかってる。
「だったら殺人を目撃された犯人が、銃弾で脳がクラッシュして生き返る見込みのまるでない潤子さんを口封じしたって線しか残んないよ」
「犯人は偉いお坊さんがやってきて、復活の呪文を唱えられると思ったのかもね」
 RPGじゃないんだから。女刑事さんは静かに続ける。
「第一、潤子さんの自殺の件はまだ殺人と決まったわけじゃないわ」
 車は今、潤子さんが住んでいたマンションに走っていた。いったいいつの間に段取りをつけたのか、発見者である兄の朗さんともそこで会うことになっている。
朗さんはマンションの玄関で待っていて、車から降りたあたし達を三階の部屋へと案内してくれた。このお兄ちゃんは二十五歳で、まだのらくら大学生をやってるんだと。丸顔に茶色いセーター着て、恐縮そうに応対してくる。実社会に出たら真っ先に落後しそうな人相だな。
「まだ引っ越しの準備してないんで、ほとんど俺が駆けつけた時のまんまです。遺書とドナーカードはそっちの机にのってました」
 机はふたつあって、一方にはデスクトップのパソコンがでんと置いてあり、そばの床にプリンタがあった。もう片方は書き物机にしていたようだ。朗さんが指したのは書き物机。それぞれの机に座り心地のよさそうな椅子がつけてある。お絵かきの道具がまったくないので確かめてみると、やっぱり潤子さんが全部捨てたのだそうだ。
 潤子さんは美大を出てから定職についていないと聞いてたけど、にしてはいいとこに住んでたな。理由を訊いたら、「今の世の中、健康と老後の保障を無視すればバイトだけでかなり稼げる」んだってさ。
「潤子さんから電話がかかって来たのは午後十時過ぎということでしたが?」
 まどか刑事は潤子さんが倒れていた奥の部屋に足を進めながら始めた。
「はぁ、潤子からは週に一回くらい電話があったんです。直接会うのは月に一度だったかな。ほとんど俺の生活心配する内容なんですけどね、お金貸してくれたり。このとおりまだ大学卒業できないで、妹にそんな苦労かけて恥ずかしいです」
朗さんはぬぼっとした胴を押さえて壁をさした。
「そこです。そこに血が落ちてるでしょ。潤子はその辺にぐたっと銃を握った手をのばして、壁によりかかって倒れてました。硝煙っていうんですか? 焦げたような匂いが強く鼻をつきましたね。あ、そばに穴のあいたクッションも落ちてましたよ」
 銃声を消すサイレンサーがわりに使ったんだろう。
「電話でどういうことを話されて、朗さんはここに駆けつけることになったんですか?」
「最初はお互いのつまんない近況を話してたんですが、途中で『昨日殺人を見ちゃったのよ』って話し出したんです。びっくりしましたよ。それに犯人に顔を見られて、『口封じに殺されちゃうかもしれないよ。面白いことになっちゃったわ』って調子なんです。俺はすぐ警察に行くよう言ったんですけど、『今は黙っててあげるの。この先どうなるかはわからないけど、裁くのは本人と神様の意志に任せたいし』って」
目撃した事件について朗さんがいくら問いつめてもその内容を話さない。
「最後には『口封じみたいに他人の力で殺されるのはしゃくだから、さっさと自殺することにしちゃった』って言い出したんです。こっちは喉がカラカラになるほど制止の言葉を叫びました。なのにくすくす笑って、『じゃあ、三十分以内に来てくれたら今日は自殺しない。一秒でも遅れたら頭に銃弾撃ち込むよん』でガチャンです。潤子は崖っぷちに立つと明るくなる質で、その冗談みたいな口調が本気の印でした」
「三十分以内にこちらに来られなかったんですか?」
「自転車こいで二十分で着きましたよ! 部屋に上がるまで五分とみても、全然間にあったはずなんです! ドアにロックかかってませんでしたし。妹の性格だと気が変わるなんてことないんですが、知り合いに心臓を譲りたがってたから、止められたくなかったのかなってその時は納得しました。今になるとおかしいことがいっぱいあるんですよね」
 あたしは出番とばかり手を上げた。
「はーい、はい。その電話で潤子さんは、『今は黙っててあげるの。この先どうなるかはわからないけど』って言ってるのがおかしいわね。それって明らかに未来の可能性を表現してるもの。すぐ後に死ぬ気なら『今は』とか『この先』なんて言葉使わないよ」
 朗さんはあたしの提言に何度もうなずき、力を得たように重ねる。
「それそれ! それに遺書も違和感あるんだ。特にワープロの文章。そりゃ俺に潤子の全部がわかってたわけじゃないけど、あんなふうに落ち込んだ文章は書かないと思うんだ」
 口調が急に砕けたな。あたしを年下と見て軽んじたね。その気になったらきみを社会的に抹殺できちゃうってのに。
 盛り上がるあたし達にまどか刑事が冷水じみた声をぴしゃりとかける。
「書き添えられていた文は間違いなく潤子さんの筆跡です。本文は容易に偽造できますが、こちらはどうにもなりません」
 ふふん、それも説明可能よ。
「でもそこに『自殺する』とは一言も書いてないよ。こういう解釈はどう? 潤子さんは自分の心臓が若菜さんと合うのを調べると、死後ちゃんと若菜さんに心臓が譲られるよう一筆どっかにしたためるはずよ。それがないとレシピエントはドナー側のわからないとこで勝手に決められちゃうでしょ。すぐ自殺する気はなくても不慮の事故に遭う可能性はあるから、検査結果の出た日には用意したと思う。犯人はその下書きか試し書きのたぐいを偶然入手して、文章が紙の端に書かれているのを利用したのよ」
「そうか! まんなか辺りに余白があれば、そこにワープロの文章を印字できる! それなら印字した後、添え書きしたように見える!」
 あたしは朗さんにウインクした。
「ご理解ありがと。この方法だと印字できる部分はかなり限定されちゃってるんで文面を短くしなくちゃならない。かといってある程度みんなを納得させられる内容にもしないといけないわ。こういう条件がついちゃったから、文に違和感が出たのよ」
 あたしは椅子から立ち上がった。
「美少女名探偵の目はごまかせないのよ」


 警視庁への帰路に車をのせられたのは、灯りのちかちかまぶしい夜になってからだった。まどか刑事にさんざん連れ回されたけど、これまでの捜査をなぞっただけで新しいことは何一つ得られなかったみたい。
「潤子さんの自殺騒ぎがあった時、アリバイが成立する人いないわね?」
 これまでは助手席についてたけど、今は後部座席のセンターで広々座っていた。まどか刑事の形のいい耳がショートの髪を分け、顔を出してるのが見える。
「若菜さんは外出できる体じゃないからアリバイがあると言えるわ。あと生稲朗さんが立たないこともないけど、証言に嘘があれば事情は違うでしょう。彼は除外できない」
「あの証言、たぶん全部ほんとだよ。ただし隠してることはあるね。脳死した潤子さんを刺したの、きっと朗さんだよ」
 まどか刑事は何の反応もしてくれなかった。後頭部から表情は読めないし。
「心の中でバカにしなかった?」
「してないわよ。立てた仮説をすっかり話してみなさい。警視庁までまだ距離があるわ」
 そう言われると単に暇つぶしを求められてるみたいでカンに障るな。ふん、ここは寛大に聞かせてあげましょう。
「朗さんが潤子さんに電話を切られてから現場に到着するまで約二十五分とするわね。すると潤子さんを殺した犯人は、この二十五分間にマンションを訪れ、全ての偽装工作をやらなくちゃならない。電話中に潤子さんのそばに誰かいたとは考えられないでしょ。じゃあ、犯人は朗さんが到着する前にマンションから無事逃げられたかしら?」
「時間的に厳しいかもしれないわね。現場で犯人は朗さんと鉢合わせになった、あるいは逃げていく姿を朗さんに目撃されたとも考えられる」
「さっすが、鳴海の部下にしとくの惜しいね。朗さんはそれをネタに犯人を脅迫したの。お金を払わないと潤子さんを殺したのを警察にバラすぞって。朗さんって見るからに金回り悪そうな人だし、まともに社会人やれそうにない自覚もありそうでしょ。お金はあって困らないわ」
「それが脳死の潤子さんを刺殺するのにどうつながるの?」
「犯人が脅迫に応じなかったのよ。警察の検証は自殺で済み、朗さんも潤子さんが殺される動機については口をつぐんでいた。下手にしゃべって警察が犯人を捕まえたら元も子もないし、とっさにうまいウソも浮かばないからね。犯人はそれに強気になったの。事件からかなり経過して朗さんが急に動機を言い立てるのは不自然で、警察も相手しそうにない。むしろ朗さんが疑惑を持たれかねないわ。潤子さんの生命維持装置は外されることになり、百億にひとつも彼女が証言する心配はない。犯人の腹が据わってれば、脅迫を無視して当然でしょう」
「なるほど、その仮説によると朗さんは事件を蒸し返す機会が欲しかったのね」
「イエス。脳死者を刺殺するっていう不可解は起こるけど、自殺を覆す証言を持ち出すのに不自然ないわね。一方不可解な犯行だから朗さんの目的が推察されにくいってメリットもある。これで警察は潤子さんの事件を再捜査することになり、殺人犯はのんきにしてられなくなった。実際そう流れてるでしょ? 犯人が脅迫に応じれば、朗さんは警察に対して『そういえば潤子はこんなことを漏らしてました。目撃した犯人は太っていて』とか、その犯人から注意を逸らすウソの情報を提示するんじゃないかな」
 これで真犯人は守られ、金ヅルを失うこともない。
「今後朗さんのお金の流れを見張ってれば、潤子さんを自殺に見せかけて殺した犯人も捕らえられるよ。そういう地味な仕事は警察のお得意でしょ? なんだったら小日向の人間かり出してもいいわ」
 まどか刑事はこぎみ良さげな笑いを立てた。
「なに、その笑い? あたしの仮説に矛盾はないでしょ?」
「バカにしたんじゃないわ。いい想像力してる。それが真相かもしれないわね」
「なによなによ、かもしれないって。このあたしがまた鳴海に負けるっていうの? ソファに寝転がってだだこねてるあんな野郎に」
 あたしがむっとすると、まどか刑事は軽く振り返り、意味ありげに言った。
「あなたは鳴海清隆って野郎のことをわかってないわ」
 わかりたくもないって。


 あたし達が一課に戻ると、鳴海はインターネットで水着のおねぇちゃん達がきゃいきゃいやってる画像をロードして喜んでいた。
 まどか刑事のハイキックが奴を吹っ飛ばしたのは言うまでもない。
「警部! 勤務中になんてサイト見てるんですか!」
「いいじゃないか、羽丘! こんないたたまれない事件のファイルを読まされてたら、むちむちでぱつんぱつんの女の子を見たいって気分になるぞ!」
 むちむちでぱつんぱつんて、あんた。
 まどか刑事は無言で鳴海を踏みつぶした。
「ねぇねぇ、羽丘サン、こんなのの思考回路を理解できてるんだ?」
「今の私に嫌味を聞き流せる余裕ないわよ」
 殴られるのはごめんなので、あたしは床に倒れたままの鳴海に近づいた。
「おい、鳴海。あたしは真相わかったけど、あんたはどうなの?」
「真相? ああ、はいはい」
 鳴海はよろよろと立ち上がるとソファにどかっと体を投げ出す。
「とりあえずきみの話を聞こうか。さぁ、話したまえ」
 なんだ、その態度は。不愉快だったけど、底抜け脱線ゲームにつき合ってるともっと不愉快になる。あたしは自分の描いた真相をとくとくと話して聞かせてやった。潤子さんの自殺が偽装であること、生稲朗さんがその犯人を目撃していること、脳死の潤子さんが刺された理由、どれもが見事なもんだ。
「ほら、あんたの負けでしょ?」
「うーん」
 鳴海は短歌の三十一文字を練っているみたいな顔でうなると、
「それ間違い。とんでもない見落とししてる。不確定要素が多くて私の仮説も絶対とは言い切れないんだが、きみが間違ってるのは動かない」
 この男はよくもそんなバカ面で!
 あたしが殴りかかろうとすると、まどか刑事が割って入ってこっちの肩を押しとどめた。どうしてこんな時は鳴海の味方するのよ!
「警部は事件をどうお考えなんです?」
「生稲潤子が目撃した殺人犯と、脳死の彼女にナイフを刺した犯人は同一人物だ。他の可能性もありうるが、直観的にそう思う。言うなれば、そうあることが一個の物語としてふさわしい」
「その犯人をすぐ捕まえられますか?」
「逮捕状は取れないな。だが直接犯人は落とせるだろ」
「わかりました」
 まどか刑事はこくりとうなずき、自分のデスクに戻る。それでいいの? 口からでまかせ言ってるかもしれないぞ、この野郎は。
 あたしは腹の虫がおさまらず、鳴海にかみついた。
「あんたは『なぜ犯人は脳死の人間を刺殺したのか』って謎を説明できてるの?」
「予想はついてる」
 そして鳴海は珍しく真面目な顔で唇を押さえた。
「欲した栄誉を、みすみす誰かに譲れないさ」
 またわけのわからんことを。
 どうせこいつの推理が当たってるはずないんだ。今に見てなさいっ。

「ワンダフル・ハート」解決編
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